[ 前へ ]
[ 次へ ]
  日本の不思議 2

英語では「国」という概念を3つの用語で明確に区分している。
「Country・カントリー」は「国土としての国」、「Nation・ネイション」は「国民としての国」、「State・ステイツ」は「国体としての国」である。
どの「国」を対象としているかによって、3つの用語を明確かつ自在に使い分ける。


音楽でもそうで、ボブ・ディランの有名な「This land is my land, this land is your land from California to the New York Island・・この大地は私の大地、この大地はあなたの大地、カリフォルニアからニューヨーク島まで」という詩は明らかに「カントリー・国土としてのアメリカ」を意識している。



 

専門的な書物を書いたり、とりたてて「国家論」(ちなみに「国家」は「国体」に近い感覚である)を論じたりするケースを除いて、日本では「国」という言葉を随分あいまいに使っている。


右翼の活動家が「愛国心こそが命だ」と叫んだり、教養ある人々が「自分の国を大切にしなさい」と諭したり、現役の総理大臣が「子供たちの世代が自信と誇りを持てる『美しい国、日本』を国民と一緒に創りあげていこう」と決意表明し、挙句の果ては、政権構想として「美しい国へ」という本を緊急出版までしている始末なのだが、一体全体彼らが口にする「国」は、「国土」「国民」「国体」のどれを指し示しているのだろう?


あるいは、それらを全部ひっくるめたものなのだろうか?もしそうだとしたら、地球的視点から日本を捉えた場合、ずいぶん曖昧というか欲張ったものに見えてくる。「どんぶり勘定だなー」というのが偽らない感想である。


日本という「国」をこのように「どんぶり勘定」で論じても日本国内で格別な論議が湧き上がってこないところを見ると、日本人は「どんぶり勘定」で「国」の歴史や現状や未来を観察することに何の抵抗も感じていないのかもしれない。


このことは、前回のブログで書いた「日本は二回しか侵略されたことが無い」という歴史的事実と大いに関係があるのだろう。古代のユダヤ人や現代のパレスチナ人のように、「国土」を喪失するとか、オスマントルコ末期のアルメニア人に対する、あるいは第二次世界大戦中のユダヤ人に対するホロコーストのように、「国民」が絶滅されかけてしまうとか、太平洋戦争敗戦後の日本やベルリンの壁崩壊後の東ドイツのように、「国体」が瓦解するといった「危機」を身近に体験していないため、「どんぶり勘定」で「国」のことを考えたり論じあったりしても平気なのだろう。


太平洋戦争敗戦後の危機こそが「二回目の侵略」であったわけだけど、神武による「一回目の侵略」から2000年近く(あるいはそれ以上)経過しているので、これから遭遇するかもしれない「三回目の侵略」あるいは「何度も続く侵略」に対する充分な論議を尽くしたり、確固とした対抗策を打ち立てることなく、「一過性の不幸な出来事」として時が過ぎるのをじっと待ちながら、一方では、「日米安全保障条約」の傘の下に逃げ込んでしまったのである。


「国」の問題は、「国土」と「国民」と「国体」にきっちり区分して思索し、それらをどのようにして調和させ統一していくかを論議し実行に移していかなければ、「少子化・高齢化」という「内部からの侵略」によって日本は自己崩壊してしまうかもしれない。


添付した写真は、「国土」のフィーリングを歌っていた頃の若かりしボブ・ディランで、横に居るのはジョーン・バエズである。


(2007/7/26)
[ 前へ ]
[ 次へ ]

トップページへ