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  日本のひとりよがり

「古代エジプト文明史」に真っ向から取り組む「大エジプト博物館」を構築する事業に現在進行形で取り組んでいるが、「アフリカ史」を自分なりに把握しないと、にっちもさっちも行かなくなってきている。

ナポレオンによる「エジプト遠征」、シャンポリオンの「ロゼッタ・ストーンの解読」、オーギュスト・マリエットによる「エジプト博物館の創始」、ハワード・カーターによる「ツタンカーメン墓の発掘」等々、「古代エジプト史」はフランスによって解き明かされ、英国によって掘り出されてきたため、いわゆる「エジプト学」は「ヨーロッパ人のエジプト学」として発展してきたといういきさつがある。

 


「エジプト人のエジプト学」はいまだ芽生えていないといってよい。
エジプト人の「エジプト学者」も殆ど全員が欧米で学位を習得している有様である(なさけない!)。


「ヨーロッパ人のエジプト学」とは、ヨーロッパ文明が世界を征服していくための政治的・道義的裏づけとして、世界に冠たる「古代エジプト文明の嫡子」こそが「近代ヨーロッパ文明」であり、その偉大な文明を受け継ぎ発展してきた「英明なヨーロッパ文明」は世界を教化し先導していく義務と権利があるとするものである。まあ、これほどの自負というか、驕りというか、無知さが無ければ、人類史上最悪といわれている「奴隷貿易」を平然と行えるはずは無かったのである。


パリのサロンで育まれてきた「啓蒙思想」や「自由民権運動」、ロンドンのコーヒーハウスで生まれてきた「株式会社」や「ジャーナリズム」のことがよく誉めそやされるが、パリのサロンやロンドンのコーヒーハウスで愛用された、紅茶やコーヒーや砂糖は、すべて悲惨な奴隷労働による産物なのである。


ナイル川は中央アフリカのビクトリア湖を源流の一つとしているが、今から5千年前に突如として(古代史的時間単位では突如というのがぴったりである)、出現した「古代エジプト文明」を語る時、「古代アフリカ史」や、その頃から始まった「サハラの乾燥化」との関係も注意深く織り込む必要がある。


で、話を本題に戻すと、アフリカ史を勉強していく過程で、「極東の果ての日本は、つくづく、ひとりよがりの国だなー」という感想を抱かざるを得なくなってしまった。


「騎馬民族征服説」の古代日本史や「モンゴル来襲」の中世日本史でもそうであるが、江戸時代の「オランダ貿易」や「黒船来航」に代表される近世日本史や、「太平洋戦争」に至る近代日本史においても、日本は歴史をも「極東の果てから観察し分析する」ということを延々と繰り返し続けてきた、ということが、アフリカ史と対比していくと、明確な事実として浮かび上がってくるのである。


別の言い方をすると、極東の果てから、自分に都合の良いものだけを望遠鏡で拡大して観察し、強引とも言える方法で、日本と世界の関わりを一方的に説明し、納得してきた。


その果てが、今日の日本の「ビジョンもストラテジーも無い外交」なのである。


世界を分断し植民地化していった欧米列強にとっては、日本は「地政学的にも経済価値においても魅力に乏しい」辺境でしかなかったのである。


別に、このことで、日本の素晴らしい文化や文明を貶めるつもりはさらさら無いが、世界との関連という視点に立つと、このような冷静な判断も必要だということを話したいだけである。
この事実は、「世界第二位の経済大国・日本」「観光出国世界トップクラスの日本」になっても事態は何も変わっていない。
望遠鏡によってではなく、自分の眼(つまり、自分の独自の価値観)で、世界を俯瞰することが苦手な民族であることには変わりない。
僕の大好きな司馬遼太郎もこの民族的悪癖からは解き放たれていない。


唯一の例外は、最晩年の作品「韃靼疾風録」であろう。
添付した図版は、「東浦賀沖に停泊する黒船」である。中世の頃から日本に渡来する外国の大型船は黒く塗られていたため「黒船」と総称されていた。


(2006/10/5)
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