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  言葉と発声

いろいろな国の言葉を学習する際には、「外国語入門書」などで、「発音」の大切さや「発音」の方法などが、何度も繰り返して、微に入り細に入り、入念に解説され、最近では、ネイティブ・スピーカーによる「発音」を録音した「CD」が「外国語入門書」に付録で付いている事も殆ど常識になっている。

言葉の「発音」の大切さについては、海外で実際にいろいろな国の言葉を、メインは英語だけど、使う機会が非常に多い僕にとって、身にしみるほど理解したり体験しているつもりだけど、言葉の「発声」の大切さについても、「発音」の大切さと殆ど同様に、日々実感している。

 

もう少し分かりやすく話せば、日本語には「日本語特有の発音」、英語には「英語特有の発音」があるように、日本語には「日本語特有の発声」の仕方(あるいは癖)があるように、英語には「英語特有の発声」の仕方(あるいは癖)があるということである。

「歌」を例にあげて話した方が分かりやすいかもしれない。

例えば、日本の歌でも、「民謡」や「演歌」や「ジャズ」や「ポップ」では、「発声」を変えるのが普通である。「オペラ」と「グレゴリア聖歌」、さらには、「ディキシーランドジャズ」と「ブルース」でも、「発声」の仕方が微妙に違ってしまう。

「違えている」のか(能動)、「違ってしまう」のか(受動)、の間にこそ大きな謎が潜んでいると思うのだけど、これは何時かの課題にとっておこう。

宗教の世界でも「発声」は非常に大切に位置づけられており、キリスト教の「聖歌」、仏教の「声明」、さらに究極のものとして、イスラム教の「クルアーン(コーラン)」など、それぞれに特有の「発声環境=音響世界」を作り出している。

言葉に立ち返って話をすれば、いわゆる「発音」によりは、「発声」にこそ、それぞれの言葉の魂が宿っているとまで断言して良いのではないかとさえ考えている。

「アラビア語の音」にではなく、「アラビア語の声」にこそ、アラビアの精神や、生活や、愛や憎しみが染み込んでいるのではないだろうかと言うことである。

言葉というのは、「発音」と「発声」がお互いに補い合いながら成立しているのだけど、日頃、「発音」だけに、つまり「形」だけに、「目」というか「口」が奪われてしまい、「発声」に、つまり「型」にまで話が及ばないので、注意を喚起しておきたいのである。

手前味噌になるけど、僕はよく「外国語の発音が上手だ」と言われるけど、本人は「外国語の発声がこなれている」のではと自分自身で納得しているだけである。

「外国語発声教室」でも開いて、一儲けしたいくらいである。

添付した図版はブッシュマンの写真である・・僕が知る限りの知識では、世界中で、ブッシュマンだけが「息を吸いながら発声する」民族である(さすがの僕もこれには手も口も出ない)。

(2006/6/23)
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