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  バベルの塔

日本語を「第一母国語」、英語を「第二母国語」、インドネシア語を「第三母国語」として、日々の会話を楽しんでいる僕は、近いうちに、たぶん半年以内に、アラビア語を「第四母国語」として堪能できるように頑張っている。

かっては、ウルドゥー語も猛勉強したことがあり、簡単な日常会話程度であれば、フランス語、ドイツ語、イタリア語は問題ない・・そろぞれの国に入って、一日程度耳を慣らし、「脳辞書」をリセットする必要はあるけど…

ということで、さまざまな民族の「言葉」は、抵抗なく僕の耳に入ってくる。

 

遠い昔、神をも恐れぬまでに傲慢になってしまった人類が、「天上世界」へと通じる回廊「バベルの塔」を建設し始めた時、神の怒りが爆発して、「バベルの塔を建設できないようにするために、働いている皆の言葉を別々のものにしてしまおう!」というご宣託が下り、皆は別々の言葉を話し始めたので、結局「バベルの塔」は完成しなかったということになっている・・ということは、それまでは、人類は唯一の、それとも共通の、言語を話していたことになるのだけど?

それにしても、たしか約1万3千と言われている世界の言語が、ほとんど9分9厘と言ってもいいほど、ありとあらゆる「感情表現」を可能にしていることには驚かされる・・「論理表現」ではない。

「論理表現」については、「農業革命」や「産業革命」や「情報革命」を経験しているかいないかとか、「第一次世界大戦」や「第二次世界大戦」に遭遇しているかいないかで、かなりの振れ幅が出てきてしまう。しかし「感情表現」は、人生の生き様そのものであり、言語間の振れ幅自体は小さいかもしれないけど、言語を横超する「感情」の振れ幅こそが、それぞれの民族を民族たらしめている。

神は、というか、自然は、というか、宇宙は、というか、は何故このような手間ヒマをかけて、つまり約1万数千通りで、人類が感情表現することを許したのだろう?
「バベルの塔」の建設阻止の代償としては、素晴らしすぎる「贈り物」を人類に与えてくれたと僕には思えるのだけど…

僕の知る限りの自然の摂理は「原則として無駄はしない」というものであり、そのことは僕たちの体の作り、例えば「指は五本」であるとか、さらに「生殖器のデザイン」、に顕著に明らかである。

日本で言えば、紫式部や清少納言、数々の和歌集、松尾芭蕉や近松門左衛門が「日本語」を研ぎ澄ましてきた。またシェイクスピアなくして、今日の「英語」が存在していないであろうことなど、「感情表現」においても数知れない切磋琢磨があったことは熟知しているつもりだけど、それにしても、何故、僕たちはこんなにも沢山の言語表現を作り上げてきたのだろう?

ところで、「消えゆく言葉」の話をしておかなければいけないだろう・・地球の時間距離が短くなるにつれて、加速度的に言語が消滅している。今世紀の末までに、いくつの言語が生き延びられるだろうかと危惧する言語学者は少なくない。つい最近、国際言語学会がアメリカで開かれたが、「消えゆく言語」の代表格として「バスク語」が取り上げられた・・「バスク」は、フランスとスペインの国境のピレネー山脈を本拠として独立運動を展開しているが、日本にもゆかりの深い「フランシスコ・ザビエル」の生まれ故郷でもある。英語を主体とする「インターネット」の普及こそが、言語の消滅を決定づけていることは確かなのだが、このブログもインターネットを利用している・・

添付した図版は、かの有名なピーテル・ブリューゲルの「バベルの塔」である。旧約聖書にも取り上げられた「バベルの塔」は、宗教的視点からもしばしば絵画の主題として、とりあげられている。

(2006/5/11)
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