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  太陰暦と太陽暦: その2

僕たちの惑星系の主星は「太陽」だし、地球は「月」という一つの衛星しか持っていないから、「太陽の運行」に基づく「太陽暦」や、「月の運行」に基づく「太陰暦」が作られ、それぞれに発展していったり、相互に連関してきたことは自然な成り行きだと思うが、事はそう単純ではないような気がする。

「暦」の専門家でもないし、「暦」について特別に深く勉強したわけでもないので、「暦」について真摯に研究されている方々からはお叱りを受けるかもしれないが、僕なりに素直に疑問に感じたことや、こうではないかと見当をつけてみたことを、少し書いてみたい・・というのは、「暦の問題」は、ちょっと見た目よりは遥かに深い関係を人類全体の文化や文明に持っているように思えてならないからである。

太古の狩猟採集時代には、「日の出」と「日の入り」の位置を少しずつ変えていく「太陽」よりも、「新月」や「三日月」や「満月」など、毎日その形をはっきりと変えていく「月の運行」に従って「暦」を作るほうが簡単であったのではないだろうか・・

将軍や大名などの一部の特権階級しか「時計」を持つことができなかった日本においては、おそらく東アジアの各地でも、「月の運行」による「太陰暦」の方が誰にでもわかりやすく受け入れられ、近世まで愛用されてきたのも当然であろう。

 

しかしながら、ナイル川沿いに農業が急速に発達した古代エジプトにおいては、「太陽の移動」とともに変動する季節の周期や、定期的に訪れるナイル川の氾濫を予知し、それに従って、種蒔きや収穫の時期を準備することが必須の課題になり、そのために、「太陽の運行」を正確に予測する「太陽暦」が発達したのであろう・・古代エジプトの主神が「太陽神・ラー」であったことも、その事実と密接に関係していると思う。

農耕文明が発達し始めた古代インドで誕生した「仏教」でも、その発展過程で、「仏陀」を越える普遍的な存在として、一種の宇宙神として、「大日如来=太陽神」に対する信仰が広まったことも、農業と「太陽暦」の深い関係を物語っているのではないだろうか。

農業がほとんど発達せず、遊牧と交易が生活を支えてきたアラビア半島で誕生した「イスラム教」が、純粋な「太陰暦=ヒジュラ暦」を維持してきた歴史的事実も、このような観点から見ると納得がいく・・一年の殆どを強烈な日射のもとで生活するアラビア半島の人々にとっては、昼間よりは遥かに過ごし易い夜間のほうが活動の主要舞台であり、「月や星の運行」を観察しながら砂漠を移動し続けることは至極合理的なことだったのであろう。

長く「太陰暦」に親しんできた日本や東アジアにおいては、宗教をはじめとする様々な社会的行事が「太陰暦」に基づいて設定されており、近代の工業化の進展に伴って、欧米諸国が採用してきた(その元祖は古代エジプトなのだけど)「太陽暦」と伝統的な「太陰暦」を融合させる必要が生じ、苦し紛れのような「太陰太陽暦」を作り出さざるを得なかったのであろう。

少し話はそれるが、明治政府が、徴兵制を徹底するために、会計年度・教育年度・新兵採用時期を一元化したことも興味深々である・・この辺りの話しになってくると筆が収まりそうもないので、とりあえず今回はここで筆をおくことにする。

前回のテレビドラマの続きだけど、きちんと纏めて話した方がよいと思うので、次回に番外編「尊厳死」ということで書くことにする・・肩透かしを食わせたみたいだけど、勘弁してください。

添付した図版は、正しいキリスト教徒としての生活の規範を示した「時祷書」と呼ばれるもので、カレンダーや時間割で祈祷の方法を解説した、一種の実用書でもあった。

(2006/3/6)
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