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  無用の用 その2

第二次世界大戦以降、日本の「家元制度」は封建制度の象徴的存在のひとつとして排除されるべき攻撃対象とされてきたが、「文化」さらには「文化財」と「家元制度」とは深い絆があるのではないかと考え始めている。

僕もかっては学生運動にうつつを抜かした方だけど、「思想は貧困を救えるか?」「自分は結局エリートな学生に過ぎないのではないか?」という自分に対する疑問に常に悩まされていた・・抽象性に対する具体性の疑問提示であった。

世界各地で様々な仕事を手がけるようになった今では、益々その課題が身に沁みて降りかかってくる・・学校や博物館を作っても、実際それらが、どれだけ世の中の役に立つのだろう?

 

エジプトの古代王朝にしても、ローマ帝国にしても、徳川幕府にしても、大英帝国にしても、第二次大戦後のアメリカにしても、即座には役に立たないように見える、つまり「無用」の文化を安定した統治権の元で育んできた・・というよりは、逆に、そのような文化こそが安定した統治権を保障してきたともいえる。

「文化=無用」と「統治=有用」の関係は微妙であり、今回のブログで語りきれるとは到底思えないが、エッセンスの触りだけは話しておきたい・・少し前のブログでも触れた「イスラムのくびき」とも深く関連している。

インドネシアやインドやパキスタンやアラブで仕事をしてきた体験でいうと、「思想は『今日』のパンには成りえない」けど「思想は『明日』のパンにはなりえる」ということである・・テロリズムの問題は「明日」においてこそ話されるべきであり、「今日」のセキュリティをどのように構築しても全く意味を持たない。

文化の話をすると、伝統とか過去とかの話になりがちであるが、実は、文化の話は未来の話に満ち満ちているのである・・英語的にいえば「文化=耕す」は、その収穫をこそ楽しむべきなのである・・昨日まで汗を流して働いてきた成果を、明日からエンジョイするという感覚である。

「囲碁」や「将棋」、ひいては「生花」という、およそ実用には全く役立たない「文化的技芸」を日本は何故もこんなに大切に涵養してきたのだろうか?

そこから直ぐに「だから第二次大戦後の急速な復興があった」とは結論づける気はさらさら無いけど、「文化財を人類共有のものにする」という馬鹿げたテーゼに対する、かすかな灯火が見えてくる。

もう一度だけ繰り返すと、文化は「今日」役には立たないかもしれないけど、「明日」には役に立つかもしれないのである・・これを「無用の用」と言うらしい。

(2005/9/1)
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