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  パンドラの箱 その3

「パンドラの箱」については、もう少し丁寧に話をする必要がある。

インターネットの爆発的な普及⇒アラブコミュニティの崩壊の危機⇒テロ活動の増大と拡散、という「三段論法」が、かなり大急ぎで展開されていて、非常に分りにくいのではないかと危惧している。

電子メールは同時送信も可能であるが基本的に個人間のコミュニケーションを、メールマガジンはグループ間のコミュニケーションを、誰でも手軽に作れるようになったホームページ、さらにはもっと簡便なブログ、は個人と不特定多数の間のコミュニケーションを・・というようにインターネットはコミュニケーションを、より直接的な方法へと段階的に変えてきた。

 

本、雑誌、新聞などの出版メディアにしても、ラジオやテレビなどの放送メディアにしても、電話やファックスなどの通信メディアにしても、少なからない投資が必要であり、一般の人々は単なるメディアのユーザーとして、情報を手に入れたり、お互いに情報交換したりといった、つまりメディアに依存する間接的な方法によって、コミュニケーションを行うことしかできなかった。

19世紀以降徐々に、20世紀に入って加速度的に普及してきた間接的コミュニケーションは情報伝達や情報交換の仕組みを変化させてきただけでなく、実は、もっと眼に見えにくいところで一般大衆(=メディアの使い手)の社会や政治への参加の意識をも変えてしまったのだ。
自分の意見を伝えたり発表したりするためにも、他の人の意見を聞いたり受け取ったりするためにも、自分で直接的にではなく間接的にしかメディアをコントロールすることが出来ない、社会に参加することが出来ない。

間接民主主義がいともスムーズに世界各地に広がっていったのは驚きでさえある・・間接民主主義に対する安易な信頼は、一方で、社会の建設や発展に対して手を抜いている無責任な側面があり、ちょっと油断すると独裁主義を招きかねないことは、歴史が充分に証明している。

過酷な自然条件によって外の世界からは隔離され、彼らの側から駱駝でも使って隊商に出かけない限り、外の世界との交流を持たなかった、砂漠のベドウインのコミュニティは、近世に入っても精々ラジオ程度の間接メディアしか生活の中に取り入れることは無かった。
そのため、家父長達や長老達による限定された直接民主主義が何時までも生き残ってきた。
男も女も、老いも若きも、部族の皆が参加する直接民主主義では合意に至るのに時間が掛かりすぎ、砂嵐や他部族の攻撃といった、咄嗟の判断が要求される砂漠の中では役に立たないものであった。

イスタンブールとメッカを結び、巡礼者の便宜を図ることを意図して建設されたヒジャージ鉄道(アラビアのロレンスの頃には軍事目的が主になってしまったけど)にしても、点と点を結ぶ交通手段であり、砂漠の中に自動車道路を建設することは技術的にも採算的にも非常に困難であったため、アラブのコミュニティは20世紀に入っても外に対して閉鎖的であった・・自分からは容易に出かけるが、外からは入り難いという意味である。

16世紀の初めから第一次世界大戦の終了まで、約400年以上にわたるオスマントルコの支配からアラブの国々が独立を始めた時、長く押さえつけられてきたアラブの人々が、自らのアイデンティティの一つとして、ベドウインの価値規範をその生活風習とともに受け入れていく、しかも都市でも田舎でも、プロセスは僕には容易には理解できない。

都市化が急速に進んでいく過程で、少なからないベドウインが都市に流入してきたことも要因の一つかもしれないが、ベドウインが維持してきた、砂漠で孤立して生きる誇りのようなものに、アラブの人々は強いノスタルジーと民族の柱のようなものを感じとったのではないか・・と類推するだけである。

(2005/8/12)
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