[ 前へ ]
[ 後へ ]
  文化の桁 その3: 型と桁

「時間の桁」「空間の桁」という話をしてきたが、ここでいう「桁」は「桁違い」の「桁」である・・一桁とか百桁とか言う「桁」である。

文化の話をするとき、日本では「文化の型」の違いに焦点が置かれることが多い・・例えば、「木の文化」と「石の文化」の比較とか、「泥の文化」は仏教に代表される東アジア文化・「土の文化」はキリスト教に代表されるヨーロッパ文化・「砂の文化」はイスラム教に代表される中近東文化に同定するといったように、「文化の型」を象徴的に簡素化して語ることで、何となく色々な文化の特質や相違が分ったような気になる。

 

「文化の型」を比較することにより色々な文化の本質を理解していこうとする手法は、日本に、あるいは日本文化に、軸足を置き続ける限りは有効かもしれないが、一歩でも軸足を外に移すと「文化の型」に頼った文化比較論は何の役にも立たなくなる・・別の言い方をすると、日本人の目線から、日本文化を物差しにして、日本人に分るように、日本文化を語ることは可能ではあるが、それ以上の何者でもないということである。

というより、異なる文化の本質を直視しないで、「文化の型」の比較という偏光レンズで異文化を眺めてみるという、しかもそれで納得してしまうというやり方は、「百害あって一利なし」という結果に終わってしまう・・「地球の歩き方」を初めとする各種の旅行案内書は、その最たる例である。

ヨルダンの国立博物館の展示計画を作成するために、にわかづけの猛勉強をしている過程で、「時間の桁」や「空間の桁」で述べたように、どうも文化には「型」だけではなく「桁」という位相があるのではないか、そうしないと、例えば中近東の歴史・地政学など、異なる文化の実体を、総体も詳細も、直に把握するというか、その実体の中に浸りきることができないのではないか、ということが見えてきた。

「桁」が多ければ優れていて、少なければ劣っているというようなことではない・・「桁」の違いは複雑さや仕様が異なるということで、「型」の違いは微妙さや仕上げが異なるということである。

僕自身は、ウラル・アルタイ語族の日本語を母国とし、インド・ヨーロッパ語族の英語を母国語に近い形で、オーストロ・マレーシア語族のインドネシア語を何の不自由もなく、読み・書き・話すことができ、目下セム語族のアラビア語を猛勉強中だけど、今になって気づいてみると、新しい言葉を習得する時、「言葉の型」ではなく「言葉の桁」を無意識のうちに変えてきていたような気がする、例えば、ラジオのバンドを中波からFMに変えるような感覚である。

宗教でも、同じセム系の民族が創始した、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の間では、またペルシャ系のゾロアスター教やアーリア系の仏教の間でも(どちらもインド・ヨーロッパ語族)、「宗教の型」の比較することでそれぞれの理解が深まるであろうが、前者と後者を「宗教の型」で比較するとかえって誤解を招きかねない・・それらは「宗教の桁」の比較で論じられるべきなのである。

海抜約600メートルのアンマンは、夏の昼間は気温が摂氏35度を超えることもあるが、乾燥しているので木陰に入ると涼風を肌に感じて心地よい・・そのため、夏になると、アラビア半島の各地、サウジアラビア・ペルシャ湾岸諸国・オマーンやイラクも、から避暑客がどっと押し寄せ、ホテルが何処も満杯になるだけでなく、街中の道はそれぞれの国のナンバープレートを付けた車で溢れかえる・・今年は特にシリアの情勢が怪しいので、皆ヨルダンにとどまっており、とりわけ喧騒がすごい。

もともと中近東に住んでいた連中はアッシリア人・アルメニア人・アルバニア人・アラム人・イスラエル人・パレスチナ人(この地では比較的新参者)などであって、アラブ人はイスラム教とともに新しくこの地に北上して来たのであるが、クルアーン(コーラン)に基づく現代標準アラビア語は誰もが操れるし、それを話している限りは相互のコミュニケーションに何不自由もない・・アラビア語圏の新聞・ラジオ・テレビ・書籍は全て現代標準アラビア語で書かれたり話されたりしている。

それでも、この地の土着民とアラビア半島の土着民(この地に移り住んだアラブ人もまだ1500年程度の実績しかない!)との間には「文化の型」では説明できない「文化の桁」の違いがあり、彼らはお互いにそれに舌打ちをしながら、同時にそれを楽しんでもいる。

2005年の夏にオープンを予定している「ヨルダン国立博物館」では、「文化の桁」で基本的な骨組みを構築し、「文化の型」で具体的な展示演出を行っていきたいと考えている・・乞う、ご期待を!

(2005/7/21)
[ 前へ ]
[ 後へ ]

トップページへ